shujyの雑記帳

キャリアも技術もお金もないけれど 家族と子どもたちを守るため 自分で道を切り開く主婦の記録を赤裸々に記したブログ

人生は誰も皆・・・

一度きりさ!

シュージィです。

 

仮面ライダーゴーストの動画を見ていましたら氣志團さんから

冒頭のように言われました。

先日も同様の話を友人としたばかりだったので、

これは天からのメッセージだなと受け取っております。

 

さて、幼い3人兄弟を持つワーキングマザーなわたくしですが、

大学生の頃に初めて抱いた夢が実はまだ胸に潜んでおります。

 

それはパン屋さん。

 

30余年の人生を振り返ってみた

幼い頃から、私は「強制」「叱咤」「指導」といったものを

母からほとんど受けずに育った。

そのせいかどうかはさておき、プライドが無駄に高く、

外面は正義感が強く、真面目な学級委員長タイプだったが、

家では怠惰で手伝いも気が向いたときしかせず、宿題も後回し。

それから他人からの評価に過敏な、脆く崩れやすい自己肯定感の持ち主だった。

 

生まれ持った感受性の強さと父のピアノ指導により、

音楽や絵描きが好きな芸術家肌の小中学生時代だった。

それから動物が大好きで、人よりも動物に興味が強くて、

人の名前は忘れるのに、飼っているペットの名前は覚えているのだった。

 

そのくせ正義感の強さから、中学生の頃、福祉に興味を持ち始めた。

人に興味がないのに福祉だなんて、今から思えば無謀すぎる。

母から、福祉と動物が好きなら将来は盲導犬の訓練士になればどうかと言われ、

割と本気で調べたが、専門学校のようなところの厳しさに、

生ぬるい環境でぬくぬくと育った私がついていけるはずもないことは、

生ぬるい私でもすぐに気づいて早々に諦めた。

 

高校生になり、料理も家事も家計のこともほとんどわからぬまま

一人暮らしにぽーんとほりだされた私は、

見よう見まねもできぬまま、持ち前の脆く崩れやすい自己肯定感を、

危ういバランスで操りつつ、

なんとか自活を行ったのだった。

それが今でも私の生活の基礎になっているであろうことは言うまでもない。

 

そして絵を描くことと人に世話を焼くのが好きだった私は、

今度は美術の教員を目指し、美大受験を視野に絵画教室に通い始める。

しかしそこでも絵画教室の課題につまづき、

(「変なおじさん」と「茄子」とあとなにかの、モチーフを組み合わせて、

一つのデザインを作り上げるような内容だったと思う)

リタイヤ。

見学に行った美大を偏差値とかそういう問題以前に諦める。

その時に一つの挫折を味わうのだった。

「自分は何か一つのことをやり遂げることができない人間なのか」と。

 

その出来事を含め、他にも問題を抱えていた大学受験を控えた時期、

今までの人生でも3本の指に入るほどの暗黒期だった。

 

とても受験勉強ができるような精神状態ではなかった私を見かねて、

またもや母のすすめで、中学生の頃に興味のあった福祉の大学を受験する。

私立大学の推薦入試で科目も少なく、余裕の合格。

比較的偏差値の低い地方の公立大学も受験したが、

面接がだめすぎだった。

多額の学費と生活費をかけてもらって合格した私立の大学で福祉を学んだ。

 

なんとか社会福祉士に合格できた私は、

知り合いのツテで、大学卒業後開所したての障害者福祉事業所で、

オープニングスタッフとして働くこととなる。

 

その施設は、自然との共存、里山保全

カフェや竹炭を商材に、障害があってもお金を稼げる仕組みをつくる、

そんな感じの通所施設だった。

石窯を手作りして、そこでピザを焼いて利用者と一緒に売りたい。

そんな夢がある施設。

 

(余談だがその施設では利用者のことを「なかま」と呼んでいた。

知的障害者分野では、「なかま」と呼ぶことが多い。

サービス提供者・利用者という関係ではなく、

同じ志を持つ仲間として共に手を取り協力し合おうという

精神からきているのだったと思う)

 

しかし、福祉の大学を出たばかり、志と多少の知識しかない私は、

ケアプランすらまともに作れず。

一方で高いプライドが邪魔をして、

うまく施設を運営できない上層部の批判ばかりして、

結局自分をどう活かしていいのか分からず、

日々通勤が苦しくて苦しくて、半年でギブアップした。

 

何もやり遂げられなかった新卒までの私

ここまで見てきたら、

社会福祉士を取ったこと以外、何一つやり遂げていない私。

 

小中の成績は比較的良かった。

大人や周りの友だちからも、よくできると評価されていた。

生徒会活動とか、積極的にやるいわゆる学級委員長タイプだった。

学生時代のアルバイトでは、

人格者の上司のおかげで楽しく仕事もできていた。

 

見かけだけだと割と順風満帆ぽいのに、

高校生で一人になってからというもの、

一気に色んなことが上手く行かなかった。

一人では何もできない人間だった。

 

結局母に頼りきりだったのだ。

母は苦しいことを私から遠ざけてくれていたから。

それにすら気づいていない脳天気な子どもだった。

 

結婚から色んなことが変わる

退職して程なくしてから23歳で結婚して上京する。

周りはもっと早くに結婚して子持ちバツイチか、結婚してない、

という友だちばかり。

 

親から離れて、他人と生活する。

 

結婚後、朝から夜まで結構バリバリ働いていた私だが、

不思議と一人暮らしの時に憂鬱だった家事が嫌いではなくなった。

初めて自分の足で立って生活している感覚だった。

新卒時代までに感じていた、体にまとわりつくような、

胸に重くのしかかるような、

なんとも言えない気怠いしんどさが無くなった。

 

結婚後の仕事はといえば、派遣社員として、

全く畑違いのコールセンターでオペレーターをする。

給料も良いし、たまたま採用してもらったので通勤に1時間位かかったけど、

いい人に恵まれて楽しく通っていた。

その後、リーダーに登用してもらい、お給料も上がって、

初めてまともに仕事をしているような気になっていた。

 

とはいえ与えられた仕事をきれいにこなすだけだったから、

私はその程度しかできないのだろうな、

と自分でうすうす感じていたし、その程度でいいやと思っていた。

正社員みたいに、責任持たされたらとても背負える自信がなかった。

 

子どもができる

26歳で長男が生まれる。

生まれて割とすぐにアレルギーでアトピーで、

親元離れての子育てで、母子ともに情緒不安定だった。

夫が自営業で比較的時間の融通がきき、

また協力的だったことが救いで、

私は夫にとことん頼ることで、そこまで追い込まれることもなく、

子どもが2歳になるまで東京で過ごした。

 

夫がサラリーマンになるというので、

ついでに自分の実家のある和歌山に引っ越してもらうことにした。

子育てには祖父母が近くにいる方がいいと思ったからだ。

 

そこから子どものアトピーが悪化。

環境の変化によるストレスもあったのだろう。

自宅がマンションの5階まで階段というのも、

体力のない私達親子にはなかなかハードだった。

 

アトピーが悪化してからというもの、

私の生活の中心はアトピーとの戦いのようだった。

 

それまで考えていた生き方とか仕事観とかそういうのはどこかに飛んでいって、

頭の中は子育てとアトピーでいっぱいだった。

 

長男が5歳の時に、次男が生まれ、その後1年半ほどで長女が生まれた。

次男が生まれる前に一軒家に引っ越し、

5階までの階段からはおさらばしていた。

 

賑やかになった我が家。

 

私が一皮剥けた出来事、トンデモ施設長と理事長との闘い

少し話は戻って次男が生まれたあと。

出産前に働いていた医大病院を辞め、

(私は本当に仕事が定まらないな)

またもや障害福祉事業所で働くことになる。

ただし、現場じゃなくて事務員として。

小さい子どもを抱えていると、ある程度融通のきく事務職はありがたいのだ。

人材不足の福祉業界でヘルパーなんぞやろうものなら、

子どもが熱出してもとても休めたものではない。

 

かなりのんびりと仕事をさせてもらってたわけだが、

そこで私の人生に一つの変化を与える出来事が起こる。

とんでもない施設長との出会いだ。

ちなみに良くない方のとんでもなさだ。

 

女性施設長だったが、利用者を金としてみているフシがあり、

金になる利用者を極端にえこひいきするので、

一部のヘルパーからはかなり軽蔑されていた。

また利用者の家族からの苦情があったときなど、

自己保身に走り、ヘルパーを売るような発言を度々しており、

もはや労使間の信頼関係はゼロ、あちらこちらで密談が繰り広げられ、

嘘も真もすべて悪い方向に行き、互いが互いの敵味方づくりに終始して、

人間関係はめちゃくちゃ。

利用者第一なんてまず無理な環境だった。

私は幾度となく施設長とぶつかったが、

建設的な話はほとんどできなかった。

なぜなら、私が利用者や施設のために目的を設定してなにか提案をしても、

彼女は自分のためになるかどうかでしか判断ができないからだ。

 

そんな中、とある事件がきっかけで、女性施設長が解任される。

 

後任の男性施設長は、良く言えば良心の持ち主だが、

行動力に欠けており、覇気がなくて、

とてもぐちゃぐちゃな施設を立て直せるような人材には思えなかった。

けど、良心はあった。

私はそこにかけて、施設の立て直し計画を具申した。

ヘルパーの自意識の改善。研修・評価制度の実施。

施設の目的を明確化して、そこに全員が向かっていける環境をつくることで、

どうでもいい人間関係のことを考える時間を、

利用者のために使ってもらえるんじゃないかと思った。

 

施設長は私の考えに理解を示し、

私の作った提案書を理事長にも渡して話を通してくれた。

 

しかし、計画実施途中で、評価されることで従業員の不満や不信を招く、

と判断した事務方に理事長を動かされ、頓挫してしまう。

理事長も交えての会議では「やり方がまずかった」という理由により、

私の計画はなかったことになる。

ブチ切れた私は、理事長に引導を渡し施設を去ったのだった。

 

自分でちゃんとやりたい

この出来事があって1ヶ月半後、私は今の職場に転職。

今度は社会保険労務士事務所。

またもや全く別畑。

組織運営で最も重要な人を上手く動かすために、

どうしたらいいかを考えていたら、

色んな会社の人事を垣間見れる仕事もいいかなってふと思い、

ハローワークで目に止まった求人に応募したら採用してもらうことができた。

 

それと同時に、自分でなにかできる仕事がほしいと思い、

行政書士も資格取得に向けて勉強を始めることにした。

 

パン屋はいずこ?

さて、一通り直近までの人生振り返ってみたところですが、

ここまで来て、パン屋が一切出てきませんでしたね。

 

私がパンづくりに目覚めたのは、

大学4年生のころ。

 

石窯でピザを焼いて売ろうという例の施設に就職する前に、

事前研修のような形で、パンを焼くことをある方に教えてもらいます。

とても素敵な年上の女性で、

その方とは今でもお付き合いがありますが、

その方に石神こだま酵母を使った優しいパンのレシピをいただき、

はじめて自分でパンを捏ねて焼いたことがきっかけで、

パンを作る喜びを知ります

 

ロールパンに始まり、メロンパン、惣菜パン、

ホームベーカリーを買って食パン、ハード系のパン、

ピザ、ベーグル、上手く焼けなかったけどフランスパンや、

カンパーニュなどのリーン系のパンにも挑戦しました。

 

けど、なかなかパン屋さんで働く、というところまで行けなかった私。

なぜならパン屋さんは朝が早いから!

子どもができた後は特に、パン屋さんで働くことに憧れながらも、

勤務時間との折り合いがつかず、

横目に見つつ通り過ぎるばかりでした。

 

尊敬できる人思いを共有できる人と働きたい

少しパンから話が逸れます。

前職での上層部とのバトル以降、

自覚的に、上司への見る目が厳しくなったと感じています。

私は器用ではないし、頭の回転も早くはありませんが、

仕事は真面目にやりますし、一生懸命です。

目的意識は人一倍強く、そこに向かうための道筋をつけて、

自分や周りの仕事をコントロールすることも、多少はできると自負しているのです。

するとだんだん、自分の尊敬する人、目的意識を共有できる人と一緒に仕事したい!

という気持ちがとても強くなっている事に気づきました。

前職の経験から、一従業員として働くだけではなく、

組織運営的な視点を常に持ってしまう癖もつきました。

 

環境を活かすも殺すも自分次第ですが、

短い人生ですから、環境を活かす労力をつかうより、

手っ取り早く自分を活かす環境に身をおいてそこで力を使うことも、

同時に考えることが必要になるのではないでしょうか。

 

一度きりの人生、

尊敬できない人のために精神も時間も体力も削って、

家族との時間を惜しんで仕事するなんてなんだか哀しいと思うのです。

 

それなら、尊敬できる人や、思いを共有できる人たちと共に、

苦しくても自分のやりたいことをやってみる、

チャレンジしてみたいのです。

 

パン屋さんならそれができる

好きなことを仕事にすると辛くなる、という人がいます。

もしかしたらそうかも知れません。

仕事は楽しいことだけじゃなく、苦しくて大変なこともたくさんだから、

好きだったことすらもしかしたら嫌いになってしまうかもしれません。

 

けど、好きなことを好きなまま仕事にしている人もたくさんいます。

 

私はそんな人のそばで仕事をしたい。

 

パンを焼くのが好きで、

自分の焼いたパンを誰かが幸せそうに食べてくれるのをみたい。

 

それが私の幸せな人生の姿なのかなと想ったのです。

 

その想いってすごく純粋で、

実際お店を経営してみたらそんなことだけじゃ立ち行かないのだけれど、

でも根っこにその純粋な想いがないと、

やっぱり上手くいかないのじゃないでしょうか。

 

色んなお仕事、福祉や美術の先生、コールセンターや、事務員、行政書士

どれも立派な職業ですが、私の動機は、

「人々の幸せを実現したい」

「絵を描くのが好きだから」

「お給料がいいから」

「子育てに都合がいいから」

「家で仕事がしたいから」

前半は具体性がなくて、後半は自分の都合・待遇メインの職業探しです。

 

それが駄目だとはもちろん思いません。

それぞれの人生でよりよい方法で、人生を満たせばいいのですから。

 

けど、私はやっぱり夢を諦めきれないのです。

厳しい世界を知ったらまた前みたいに諦めたくなったり、

逃げ出したくなるかもしれない。。。けど、

やる前に諦めたくはないのです。

 

パン屋さんにきっとなる。

 

そう心に決めて、今を生きていこうと決意したのです。

 

早朝の静かな決意表明。

 

それではまた。